ENo.0132　マリウス・セイル・アランドール

今日も日の出と共に目が覚める。
烏も森も静かだ。ペイヤールを外に出し、霧の混じった陽の光を入れる。

短針が七を差したあたりで紅茶と、小麦の魔女セルマが昨晩用意してくれたスコーンを食べ終わる。
読みかけの本を閉じると、ガウンを椅子にかけ、庭へと続く裏口へと出る。
朝露に濡れた色とりどりの薔薇が、いつものように出迎えてくれる。
濡れないようにと服の裾を持ち上げ、ゆっくりと、広い広い薔薇園を歩く。
メリンダ、マルギット、ヨナ、リリアナ。今日も、どの薔薇も美しく咲き誇っている。
細い風の音と、髪と頬を湿らす濃い霧。控えめな草の音が心地いい。

少し奥に入ったところで黄金色の花弁を持つ薔薇に行き着く。
"リディアンヌ"だ。
彼女は、長い金髪と枯れ木のような細腕を持った魔女だった。
長くこの城にいたが、とうとう満月の夜に、その命の灯を消した。
彼女と同じ細い茎と、黄色い花弁。今朝やっと蕾を開いた。

魔女がこの城で死ぬのは珍しくはない。
長生きする魔女の方が珍しいのだから。

*　*　*

八時を回れば、城の中では魔女達が目を覚まし始める。
先ほどレニーの声と鍋を叩く音が聞こえた。マルエルが寝坊でもしたのだろう。


「おはよう。今朝も賑やかだな」

広間へ戻れば魔女達が、テーブルを囲い、皿を並べていたところだった。
テーブルの先へと腰をかけると、テーブルの端で動く黒い毛の塊が目に付いた。
先日来たばかりのまどろみの魔女、マルエルだ。

「マルエル。なんだその格好、髪がめちゃくちゃだぞ」
「マルエルの髪ってば癖が強いから、櫛が通らないんですよ。無理に通すと痛がるから」
「平気よ！とかさなくったって、病気になるわけじゃないんだし」
「駄目だマルエル。こっちへ来い」
口を尖らせるマルエルを呼びつけると、懐から小瓶を取り出し、小気味いい音と共に栓を抜く。
少し黄身がかった液体を手に注ぐと、ちょいちょいと指先を動かす。
マルエルが不思議そうに丸い目を瞬かせると、一歩歩み寄る。
もう一度今度は、指をくるりと回して見せると、今度はこちらへ背中を向ける。

手元にやってきた黒髪に、濡れた手を添えて、そのまま手で梳きながら流していく。
上物の髪油だ。もつれてぼさぼさだったマルエルの髪が、次第に艶めいて真っ直ぐに慣らされてゆく。

「いいか、マルエル。生きたいなら美しくなちゃは駄目だ。選ばれたいならな。
髪の先一本、指の爪ひとつまで、美しくしなくてはだめだ」
「どうして？」
「魔女だからだ。
お前達はこの城にいつまでもいれるわけじゃない。いずれ誰か"一人"に選ばれなくちゃならない。
その為にはまず身なりを整えろ。俺の城で髪すら整えられないような魔女なんてあっちゃならない。
俺の恥以前に全ての魔女の恥になるような事はやめろ。いいな？」
肩越しに此方を見ながら、小さな魔女は、恥ずかしそうに頷いた。



南瓜のスープと、豆のサラダ、バゲットを平らげるのを見計らって、煙の魔女がおずおずと手を挙げる。
「マリウス。湯の準備はできてるのでよければどうぞ」
「いつも悪いな、キルステン」
「いいんです。体が鈍ってしまうし」
「じゃあ頂いてくるかな。クラリッサ、頼んだぞ」
「はい。今日は夕刻からお知り合いのところに、でしたわね」
「ああ。相手は女性だから、あまり堅苦しくないものがいい」
自分の言葉に、裁縫の魔女が手を鳴らす。
「それなら以前頂いた、キルティングのコートがきっとかわいいですわ。まだお召しになっていないでしょう？」
「任せるよ。お前の見立てはいつも素晴らしい」


*　*　*


―――帰りは夜更けになった。

予定よりも随分長い長い話をしたせいだ。
長い話。"澱んだ彗星"の予言の話。

「15週後…そんな、急すぎます」
キルステンが震える声を抑えるように、薄い唇を手で覆う。

「仕方ない。土地を食い荒らしていたのは俺達魔王だ」
「でも、でも茶葉を育てれば、大丈夫なのでしょう？」
クラリッサが畳んでいた衣服を握り締めて恐々と言った。

「勇者とやらを叩くのに兵を雇う魔王もいるらしいが、俺は血生臭いのはごめんだからな。
いずれにせよ勇者は"森"がなんとかしてくれるだろう。お前達が血を流す必要はない」
「マリウス」
「庭の薔薇を紅茶にすることはできるか」
「できると思うけど、でもあの薔薇は」
「いいんだ。"彼女たち"もいつまでもあそこに咲き続けてるってわけにはいかないんだ。できるな？」
「はい……」



がちゃがちゃと床を埋め尽くす道具の数々を、暗闇の中淀みなく進んでいく。
「忙しくなるぞ、ペイヤール」
硝子の髑髏の上で羽繕いをする白い烏に、静かに声をかける。
寝巻きの袖に滑るように腕を通し、ベッド端に寄せられた本や魔道具を避けながら、分厚い羽毛布団で体を覆う。

黒い黒い森の中で、烏が一羽、羽ばたく音が聞こえた。