ENo.0022　リーゼ

ひとつ、赤レンガの小奇麗な道。
ひとつ、広場には街を見下ろす時計塔。
水曜日の朝には、大通りに露店が立ち並ぶ。
金曜日の夕には、広場で罪人の首が飛ぶ。

そうして、そうやって、再び日曜日がやってくる。



天井から朝日が射す廃墟の中、女は静かに紅茶を啜っていた。
ざんばらに伸びた髪はろくに整えてもいないのか、先はくるくると絡まり、
本来白色であったであろうその毛も、野良猫のような少し黄ばんだ色をしている。
女は、苔むした床板を見つめていた。
床下から這い出してきた虫を、じっと見つめていた。
虫もまるでそれに応えるかのように、その場に留まっていた。

「お前はいつもそこから出てくるのね。決まった動きで、決まった時間に。」

しびれを切らしたように、女は言った。虫は飛び立った。
女の耳には小さな虫の羽音など、聞こえはしない。
言葉は虚空に浮かび、沈黙が返事をした。

『おうい、今日はいるかい？』

小屋の外から、少年の呼び声がする。
がさがさと草を掻き分ける音がして、曇った窓を誰かが叩いた。
女はそれに応じることもなく、動かず、静かに座っていた。
やがて、ドアに掛けられたベルが曇った音色を垂らす。声の主が小屋の中へとやってくる。
彼はじっと固まったままの女の姿を見つけられずに、その場に立ち止まった。
同時に、床の軋む音も止む。

『……ああ、そこにいたのか。返事ぐらいしてくれたっていいのに。』
『ずっとここにいたんだから、すぐに見つけてくれたっていいのに。』

女にすぐ言い返された言葉に、彼は少しばつが悪そうにして、肩をすくめてみせる。

『君がお友達を笑顔で出迎えてくれたなら、すぐに見つけられただろうけれどね。
まあ、そう言わないでさ。今日はおみやげがあるんだ。』

おみやげという名のそれを、彼が差し出した。
おつかいで使うような手で提げられる、小さなかごだ。
これ自体も特別なものでも何でもないが、女にとっては特に、ひどく見慣れたものだった。

『ダグ、そのかご。またパンを持ってきたんでしょう。』
『おや、魔女様の先見の明かな？』

ご名答。そう言って、少年ダグはかごに被せていた布をおろす。
セサミブレッドとスライスされた黒パンが数切れ、
そしてその隅にはいびつな形をしたクロワッサンと小さなジャム瓶が詰まっていた。

『ほら、今日はアプリコットのジャム。好きだったろう。』

今度はその瓶を差し出すが、女は一向に受け取らない。
ダグはわざとらしく首をかしげてみせると、
一緒に持ち込んだバターナイフでジャムをすくい取り、クロワッサンに乗せる。
それで食べられなくなるわけではないが、パンにだって向き不向きがある。
ジャムを塗られるという栄光に何故か選ばれる、クロワッサン。女は眉を顰めた。

「……今日は日曜日、パン屋は休みのはずでしょう。」
『まあ、まあ。そんな顔するなよ。ほら。』

このままだと生地がこぼれるから、ダグはそんなことを言って、クロワッサンと一緒に布を差し出す。

『……パンがあたたかいのはどうして？』
『休日もみっちり修行させられてるんだ。見ての通り、なかなか棚に並ばせて貰えないから。』
「抜け出してきたのね。」

返事はない。ダグはまるで聞こえていないような素振りをしていた。
女は一度、ため息をついた。まだ熱の残るそのパンの先を齧る。

『……おいしいよ。貴方がそうやって、週に一度、会いに来てくれるのも嬉しい。』
『へっ？』

素っ頓狂な声を上げて聞き返してくる目の前の少年に、もう一度ため息をついた。
そのまま、食べかけのパンを冷めた紅茶のカップの上へと器用に置いた。

『でも、いつまでもこんなことをしていたらいけないと思うの。
私達はもともと同じ孤児だったかもしれないけれど、今はもう違う。』
『……。』
『貴方だって、パン屋のおじさんには恩があるでしょう？
弟子入りまでさせてもらったのに、こんなところにいたらダメよ。』
『…………。』
『だから、今日で最後にしましょう？次に会う時は、私から。』
『そう！そう言うと思ったんだ！！』

女が言い終えるや否や、ダグは大声を出して立ち上がった。
その勢いで、彼が座っていた丸椅子が床に倒れて転がる。

『あっ。ごめん。』
『……いいの。続けて。』

ダグは一度口を噤んで、所在なさそうに自ら転がした椅子を元の位置へと戻した。

『……リーゼ。君がこの街からいなくなると聞いたんだ。
だから、噂が本当なら。僕は最初から、次で最後にしようと思っていたよ……。』

真面目くさった顔をして、ダグはかごに収まったジャムの瓶を手に取った。
少しこぼしてベタついたそれを何も考えずに掴んだのか、彼は再び瓶を置き、ズボンで手を拭った。
リーゼの好物がアプリコットなのは、本当のことだ。彼なりのささやかな餞別だったのだろう。

「……嘘よ。私には、この街から出ていく力が無いもの。」
『君はそう言うけれどね。心の準備というか……、最後にするのは、来週にさせてくれないか？』
『……どうして、来週なの？』

ダグは言葉では答えず、リーゼの顔を見つめた。
リーゼもまた、彼の目を見つめ返した。
見つめ合う二人の姿は、傍から見れば恋人同士のそれのように見えただろうか。
あるいは、そんなことはなかったかもしれない。
二人とも、この時だけはまるで葬式か何かのように、ひどく固まった顔をしていた。

彼は少しの間を置いてから、思い出したように微笑んでみせた。
微笑む前からそこにあった、ひどく遠くを見つめるような眼差しがそこに残っている。
リーゼはそれに返事をするように、目を細めた。

『次があるなら、残りの一週間も楽しみになるだろ。』

中身の残ったパンかごをテーブルの中央に置き直すと、彼は言った。
それから、彼がその口から新しい言葉を吐き出すことはなかった。
リーゼもまた、彼が帰るまで、床を見つめていた。

虫の羽音が、かすかに鳴り響く。