ENo.0020　田村たんす

はふう、と息をつくと汗が額からすべり落ちた。
行儀悪く軍手で拭うと、粗い布の触感が肌にひっかかって少し痛い上に、葉っぱ屑があべこべにぺたりと張り付いて、たんすは思わず顔をしかめる。

太陽はまだ高く、休憩をするには早い時間だった。


目をつぶり、耳を閉ざし、深い眠りについていたとしても、頭の奥底に響き理解される声なき声。それを天恵というのだろうか。

たんすが魔王だと自覚したのはこの世界に訪れてすぐのことだ。
いぬさんが「わんっ」と言ったので、たんすも「わんっ」と返して、いぬさんのしっぽを追いかけた。
そのときである。ぐわんと体全体が揺さぶられた。目の前がちかちか明滅して、耳の奥でキンと冷たい音が鳴り響いて、突然の衝撃に思わず膝をついた。
前かがみになりながらも大地を掌で押して立ち上がろうとして、無理だった。
平衡感覚を操る器官が何者かの掌の上に転がってぎゅっと強い力で握りしめらるみたいな、痛みとは異なる圧迫感が襲って、上下左右の奪われた世界に耐えれず身を転がす。
たんすの体は大地にぺたりと横になっていたが、本人の知覚上では水の中に浮いているような、空から急速に落下しているような、急速回転するコーヒーカップに押し込められてぐるぐる回され続けて確かに自分は座っていると理解しているが実感はそこからかけ離れて正しい状態を認識できないといった、そんな様子である。


なにが起こっているのか、わからない。
ただただ気持ちがわるい。
早く楽になりたい。


苦しみを逃すように浅く息を吐くと同時に頭に鋭い衝撃が走る。
直接石を落とされたような鋭い痛みと遅れてやってくる鈍痛。
出しかけた息もひっこむ。苦しい。痛い。
ううう、と呻きながらたんすは両手で頭を覆った。


それは、痛みのさらに深く、瞼の裏に反射する闇のさらに奥で、きらきら光ってた。
声ではなかった。文字でもなかった。言うならば意思か。
頭の奥底向かって叩きつけて、無理やり理解させようとする概念。
それがなにであるか理解して、知識の箱にこびりついて剥がせなくなるまで、何べんも頭に叩きつけて平たくさせて塗りたくるもの。
理解のための衝撃を受けるたび、たんすの小さな身体は衝撃でびくりと震えて、もどしかけるのを我慢して、代わりに汚い咳を吐いた。次第に息すらできなくなった。

たんすは自分が魔王だと知った。世界の歴史、神に呼ばれたこと、茶葉を育てなければいけないこと、勇者と戦うこと。
一方的に教えられて、疑念を挟む余地もなく痛みで納得させられた。
ひとつ知るたびに頭の上部がつきんと痛んだ。
体の一部をつくりかえられていくような痛みだった。


暴虐の嵐が去ったとき、たんすにはもう立ち上がる力はなかった。
大地にぐてりと横たわる身体は全身から汗を吹きだして、呼吸はひゅーひゅーとか細く苦しげだ。
誰か大人が哀れな少女を見つけたならば、陽射しの照りつけるところから日陰の涼しいところへ運んで、彼女を助けてくれたのだろうけど、たんすはひとりなので救われなかった。

代わりにいぬさんはぺろぺろとたんすの頬を舐め、ねこさんはじっと見守っていた。
たんすを覗き込む二匹は、少女に降り注ぐ日光を遮る力をもたない。
光は彼らを透過して影ひとつ生まれない。

たんすには影があるが、いぬさんとねこさんは影をもたない。
そういうものなのである。


かみさまとの出会いとか。魔王のなりかたとか。
人によってさまざまらしい。
直接身を投ずることなく何らかの手段によって代理人を立てて間接的に介入している魔王もいる、というのも聞いた話だ。
たんすのように、乱暴に、横暴に、屈服させて従わせるという手段を受けた人だって他にもいるんだろう。恥ずかしいからこの話は誰にもしていないけれど。

人の話を聞くたび、ちょっとだけ、たんすは神様と直接出会った人が羨ましくなる。
厄介ごとを負うことは、実はそんなに嫌いじゃない。
もしも「魔王をやってほしい」と見ず知らずの人に言われたら、理由を聞いたあと、それがどんな理由であろうと「わかった」とたんすは頷くんだろうなという確信めいたものを抱いてる。
たんすは愚直だから誰かの助けになるなら精一杯尽くしたいのだ。


意思のやりとりをして、合意の上で魔王になった人が羨ましい。
たんすの神様もそんな人だったらこんな風にどこか惨めな気持ちを抱かずに済んだのかなと思う。


ないものねだりしながら、たんすは再び茶摘みを再開した。
お茶を育てる、摘む、工場へ運ぶ、ごはんをたべる、勇者が来たら追い払う。

それがたんすのここ一週間のサイクルで、そしてこれからも続いていくだろう習慣だ。